昭和五十一年 五月二十六日 朝の御理解
御理解第六十七節「何事もくぎづげではない。信心をめいめいにしておらねば長う続かぬ。」
何事もくぎづけではないとおうせられるのですから、くぎづけにしてはならんということになりますね。くぎづけにしてはならないということです。めいめいに信心はしておらないと、長う続かんと。信心はめいめいのものでなからなければならないけれども、同時に長う続かねばならんということです。そこで、長く続くからにはまたは長う続くためには信心が一段一段進んでいかなければならんと同時に、おかげもまた一段、一段大きく広がっていかなければ長う続かんということになるのです。何事もくぎづけではないと、確かにそうだなと分かっただけじゃいかん、だからくぎづけにしてはならないということです。信心をめいめいにしておらんと長う続かんとおっしゃる。長う続かなければならない。ただ長う続くということは、ね、いうなら細い道でも踏み広げて通るのが繁盛とおうせられるように、踏み広げてとおるようなおかげでなからなければ長う続いただけでは値打ちがない、長う続けば続くほどおかげが広がっていく。大きなおかげにつながっていく、だから続けづにはおれんのである、ね、ということになりますね。 昨日、お道の新聞に芦屋教会の日吉先生という方が拝むということについて書いておられます。まだそれもほんのちょっとしか読んでません。噂には聞いておりましたけれども、先生御自身が何か下の病で大変おかげを受けられたということだそうです。ですからもう下の関係のおかげの方は大変御比例がたつわけです。止血をするとか、痔をわずらうといったような、ね。それがある方が先生に問われてる。お宅ではたくさんな痔をわずろうた人が助かるということですが、何人位助かったんですか。六十七人助かっとりますと答えておられるですね。実は私も痔が悪いのですから、私をその六十八人目のいうならば、助かり者にしてくださいというて願われた。大学の助教授の方だそうです、名刺を渡された。その方もしばらくして、全快のおかげを頂かれたというそこまで読ませて頂いた。
私は昨夜からそのことをしきりに考えて、まあ本当にそのいわゆる便所を拝むということを書いてありますが、私も昨日から特別念を入れて便所を拝む。拝むということは大体どういうことだろうかと。もう昨夜からそのことをしきりに考えて、今朝の御祈念に入らせてもらいました。ただ合掌する、ね、ただ合掌するということだけでは拝むということではない。今朝から頂きますのに、こんな御教えがありますね。『「女が菜園に出て菜を抜く時に、地を拝んで抜くというような心になれば、おかげがある。また、それを煮て食べる時、神様いただきますというような心あらば、あたることなし。」』ここんところを頂くんです。ははあ、拝むということは頂くというところにつながらなければ値打ちはないということであります。ただこうして手を合わせて拝むというだけではいかんのです。ね、例えばなら下駄でも拝まなん、そんだけじゃいかん、今から履かせて頂きますという願いがなからなければいけない。お便所をこちらから拝んでいくという心あらばだけでもありがたいけれども、ならお便所を使わせて頂きますという、ね、私はそういう内容のもっともっとそれが深いものを御自身が頂きになられて、いわゆる確信をもって、もう痔の病気だけなら便所を拝みさえすりゃあおかげいただくばいというお取り次ぎをなさっておられる先生だろうと思うんです。だからこれはまあ一切を拝むということであります。と同時に頂くということであります。
今日は、御神前でもうあんな大きな撥を見たことがない、『三味線の撥なんですけどね、そのもう象牙の見事な撥』を頂きました。どういうような事じゃろうかと思うた。四神様の御教えの中に、ある人が難儀に直面して急にこの頃無信心になっとりましたから罰かぶりましたというてそのお届けをしたそうです。そしたら四神様が、ね、この神様はね、罰をあたえる暇があるならおかげをやるばいとおっしゃったそうです。この神様は罰をあたえる暇はなかとおっしゃったというのです。ね、例えばお気づけを頂くところに、それはどこまでもお気づけであって罰じゃない、その場合にはたたかれることもありましょう、けれど決して罰じゃない。分かってくれよという神様の切なる願いの現れである。ですからそういう罰があたると普通では申しますけれども、ね、そういう罰があたったおかげで良い音色がでるということになるのです。ね、そこで問題は罰がまあ、これ三味線でいたしますとね、こうジャンジャラ、ジャナジャラこう撥をあてるだけではいけん、もうやつぎばやにお気づけを頂くばっかりではやっぱり罰ですよ。ね、けれどもこの神様の心の奥というのは、ね、罰をやるひまがあるならおかげをやるとおうせられるのですから、それをおかげと拝んで頂くということなんです。
それはどういうことかというとです、本当に最近無信心になっておりましたらこいういうおきづけを頂きました、本当に神様なればこそ、これで私共の信心もまたシャンといたしました。といわば、それを拝んで頂くという心になる、拝んで頂くおかげで私共の信心がシャンといたしましたということになればもうそこにキチッとしたつぼを押さえてあるわけです。いわゆる竿んところをがし握りするのではなくて、そういう頂きますと拝むと、拝んで頂きますというつぼが押さえられている限り罰があたればあたるほど良い音色が出るということになりますですね。何事もくぎづけではありません、もう毎日毎日が実をいうたら決して同じ日とては一日とてありません。時々刻々に変わったいうならば時々であり、刻々であり、一日であります。その中に様々なことがおきてくる、その起きてくる全てをね、押し頂くという心、押し拝むと言う心。そういう例えば生き方をさせて頂くならばです、ね。これは長う続けるなと言われても続けずにはおられないのであり、有り難いのである。これから先、どのようなことが起きてまいりましてもこちらがそれを拝んで頂くという心あらばあたることだけではない、それが滋養になるのである。それが血になるのである、肉になるのである。
ね、だから金光様の信心はここんところを一つ体得しなければならないということになります。いわゆる何事もくぎづけではないということはくぎづけにしてはならないということです。長う続かんということは、銘々がただ今申しますような一つの頂き方というものをです、身につけておきませんとです、それを難儀なこととしてしまう、それを例えば難儀なことであってもそれを拝んで頂くという心にならせて頂けばそれが良い音色になる、それが有り難いおかげになる。おかげで信心ができましたとお礼が言えれることになる。だから続けるなと言われても、続けずにはおられんということになるでしょう。私はこれは合楽の皆さんの一人一人のことを思うてそれを実感いたします。高芝さんがここにおられる、久富さんがおられる、秋山さんが、総代さんがずらっと並んでおられるがどの人の信心をみてもです、何かあるたんびに信心が進んでおられるということです。だから信心がやめられんということになるのです。なるほど考えてみると、様々なことがあった、いわゆるくぎづけではないから様々なことがあるのです。
そしてそれが何ともいえんおかげになって良い音色ができ、いわゆる勘所を押さえ押さえ、まあ少しは狂うとる時もありましょうけれども、ね、それを自分で勘所を探しながらでもそこを押さえて行く、そしてその罰がここにあたる、ね、いうならお気づけならお気づけを頂いて痛いけれどもです、有り難い。おかげでその都度都度に信心が飛躍していく。今日私はこの六十八節からね、拝むということは頂きますということにつながらなければならないということ。これは便所だけのことだけではありません、全てのことが拝んで頂くということ。
信心を銘々にしておらねばと、もちろん信心の程度もそれぞれ違いますしその性格もまた違うのです。先日から子供達の信心のことを一人一人思わせて頂いておりましたら、『私が祭主で四人の男兄弟がそれぞれの祭員のおかげを頂いて、親子五人で何かお祭りを仕えているとこ』を頂いた。そして、『親指をまず頂いてからこう一本一本立ち上がるところ』を頂いた。そしていわゆる片手が足ろうてそしてそれで物をこうつかむというか、ということなんであります。
「霊まつり、父を祭主に四兄弟」そういう句が出来た。ね、お祭りをお父さんが祭主、長男が副祭主、それぞれ後取を賛者をという風にそれぞれが、ね、だから信心をね、例えば私の方で幹三郎なら幹三郎が中々よい信心をいたするといたしますか、ね、長男もあげんあってくれるとよいけれども、二番目がまちっとこうしてくれると良いけれども、一番下んとが一番つまらん、どんこんされんということじゃない、みんな例えばこの指でするならばこの中心が若先生でしょう。この人差し指が光昭でしょう。この薬指が幹三郎でしょう。この小さい指が栄四郎でしょう。何かこうして四本並べてみるとそれぞれその通りの性格を頂いとるようです。だからみんなこれがあんた、高々指と同じごたったら化け物のごつなってしまう。(笑)
ね、太かとやら、高かつやら、こまかつやらあって初めて、ね。そして親がこうして立ち上がる時にいうなら片手、だから信心を銘々にしておかなければならんということはそういうことであると思うのです。俺と同じ信心をしてくれるとよいということはない、だから問題はそれを本当にいかしていく信心がです、私は拝んで頂くということ、ならどの子でもこの子でもです、ならおかげで拝んで頂くということです。
ね、毎朝幹三郎、栄四郎が朝の御用にでできてくれる。光昭がお迎えにでてきてくれる。若先生が五時の御祈念を奉仕してくれる。それぞれしとることが違うんですけれどもそれぞれがいうならば、それぞれなりにおかげを頂いておるということなんです。それで、なら大きくこうやって んでいくことができる。同じであることはない、銘々に、今日は信心を銘々にしてということはそういうことであり、何事もくぎづけではないということは決して同道まわりであってはならない、決してそこに同じことであってはならない、くぎづけではないから、そんならくぎづけにしてはならないというは、少しずつでも変わってよい方へいかなければならないということである。それにはね、長う同時続かなければならない。長う続くためにはおかげを頂いていく日々でなからなければ長うは続かん。信心しとるけども、いうならお気づけばっかりというようなことではね、長う続かん。いよいよ罰かぶることになってしまう。
昨日、二十五日の研修の時に、文男さんが最後にお話しをしておりました一番最後に付け加えておりました、とにかくお互い生身をもっとるから信心を落としますと、どんなとこへ信心が落ちていってもです、そこからやはり神様の方を向かっておればよいというようなことを申しましたから私がまたそれに付け加えました。今までの信心はそれでよかった、ね。本当に神様の間違いなさが段々わかってきながらも、やはりお粗末ご無礼になっておかげを下にすとーっと落としてしまう。それでもまたそこからのぼっていく、神様の方へもう落としたからというて信心をやめるようなこであってはならないというわけなんです。そこからまた神様へ向かって心を進めていけばよい。ここだけはお互いが心掛けとかなきゃいけんという風に申しましたから、私がね、今の合楽ではもうそうではいけない。そういうことであったら落とした、また向かう、落とした、また向かうで同道まわりの信心になってしまう。ね、もう合楽の信心は決して同道まわりであってはならない、いわゆる今日の御理解でいうならば、おかげを頂いてやはり一段、一段進んで行かなければならないし、長う続くということは長う続いておるだけおかげの進展もまた見ることにならなければならない。
そのためにはです、お互いが日々こうして信心のけいこをさせていただいて、いよいよ今日の御理解でいうならば一切のことを拝んでいただこうという気になることだと。それを、例えばなら一切のことをなら今日も御の字をつけて成り行きをいよいよ大事にさせて頂くという心でおればです、その有り難いという信心を押さえることができる、落とすことがない。そういう思い方、それを自分の信心の心情としなければいけない。落としようがない。いうなら落とさんというて支えてえるだけではいけない。いわゆる長う続かなければならない。長うつづくということは、一段、一段広がった世界にいかなければならない。ためにその喜び、信心をもってです、ね。信心の真をいよいよ現していかなければならない。
そこから信心はいやがうえにもお引き立てを頂くことになるだろう、信心の成長が頂けることになる。ね、信心が大きくなっていく、大きく育っていく。おかげもまた大きく育って行くことも間違いはない。なるほど何十年間の信心を見て一つの素晴らしいとこを通って神様の間違いなさを分かっておるけれども、どうもおかげが同道回りだというならばです、それこそ文男さんが頂いておるように、ね、落としてもまたそこから神様の方だけは向いとかにゃでけんというところだけではないか、だらからもう合楽の信心はそれであってはならない。そして、今日御理解で申しますとです、いよいよ全てのことをです、拝んで頂くという心にならせて頂き、そこから良い音色が出てくることになり、ね、その良い音色が出れば出るほどいよいよ信心は続けなければおられない。続ければ続けるだけおかげの進展もまたそれに伴ってくるというおかげを頂きたいですね、どうぞ。